2014年12月14日日曜日

家族の定義が広いワケ~一家族30人は当たり前~

Bonsoir

今日の晩、友達の家にいてディスカッションしていた時

友人の叔父だという人が家に来て

ものすごい勢いで絡んできた。

そしてかなり酒臭かった。

その絡み方は悪酔いとでもいうように、気持ちのいいものではなかった。

ましてや、イスラム教でお酒は禁止されている。

かなりめんどくさかったので適当にあしらっていたが、仲いい友人の叔父だと言うから

あしらうにも、かなり無下には出来ない。

友人を見て助けを求めるが、何も言わない。(このことに私は少し腹立った。)

後でその酔っ払いが違う人の所にいったのだが、なんてセネガル人は優しいのだ!と感じた。

ちゃんと無視しないで相手してあげているのだ。(笑)

そこで、友人にセネガル人は優しいね。日本だったら、どうしようもないような人間にもっと冷たいよ。

と言った。

その叔父という人は、働いてもなければ、禁止されているお酒を飲み、酔っ払い

タバコまで片手に吸っているのだ。(そして絡んでくる)

そんな私に、友人はこう説明した。そしてなぜセネガルは家族の定義がこんなにも広いのか

少しだけわかったような気がした。

友人は私にこう言った。

「例えば道に知らない人がいて、助けが必要だとする。

例えその人が知らない人でも、こう思う。もしかしたら、彼の親やその親

家族や親せきの大人に、僕が知っている人がいるかもしれない。

そうであれば、この人は兄弟になる。助けが必要ならば、助けない理由はない。」

またこうも言った。

「例えば、◎◎という村に知り合いがいる。そこの家では、僕は好きな時に寝れるし

好きな服を着れるし、好きな時にシャワーを浴びれる。隣町にも家族がいる。

そこでも僕は好きな時に好きなことが出来る。1年くらいいても誰も何も言わない。

例えば今この目の前で、君がここで寝ても誰も何も言わない。だって君は僕の友人だから。」

彼らからしたら、自分より年上の人たちは敬うべき存在で、

どこかでその年上の人たちと繋がっている自分の周り、もしくはまだ会ったこともないような人にですら

家族の一員だと言う感情を馳せるようだ。

「友人が痛みを感じれば、僕も痛みを感じる。」

私は、そのめんどくさい酔っ払いを、外に出すべきだよ

とか言っていたのだが、友人の家族の人たちの優しさに感動すら覚えた。

仕事もしないで、禁止されているお酒を飲み、たばこを吸う(そのお金はどこから?とも思うが。)

日本では相手にされないだろうと思う

冷ややかな目で見る人が大多数ではないだろうか。

けれど、この国では、そういう事で人の価値を測らない

お祈りの時のように、神の前では、大統領も教師も家政婦も子どももフリーターも

みんな一緒なのだろう。

建前もあるのだろうけれど、彼らは本当に家族のようによくしてくれる。

そこに日本での生きにくさと、この国での生きやすさがあるのかなと感じた

一長一短で、何かを得れば何かを失う

セネガル人が「セネガルはいいぜ!」という理由は、大部分はここにある気がする

ただ、働いて家族や周りの働いていない人たちを助けている(養っている)人たちからは

「1人で10人も養わないといけないんだよ」とか

「セネガル人は働かない」とかいう事もしばしば聞く。

国の発展という意味では、障害になる部分でもあるのだろうし

働いている人たちからすれば、いい気持ちにはならないことだろうと思う。

友人は一例にすぎないかもしれないけれど

でも根底には、友人が説明してくれた考え方が伝統的に残っているんだろうなと感じた日でした。


友人の家には多くの人が出入りする(私はもはや血縁関係がよくわからない笑)

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