2014年1月27日月曜日

変わる感覚

bonjour!

先日、3か月と短い間でしたが、とてもお世話に調整員の方が帰国されるということで
リンゲールにてジョロフチーム(ダーラ&リンゲール隊)で送別会をしました。

こうしてお世話になった人が1人1人と去っていくと、寂しいですね。

任地についてもうすぐ3か月が経とうとしています。早いですね。

新隊員もついて、先輩隊員になったわけです。まだ会ったことなにので実感はないですが。

最初のころと、明らかに変わってきている感覚があります。

それは、セネガルが「低所得国」であるという体感覚。

最初セネガルに来た時、ダカールというのもあり、かなり発展していることに驚きました。

その後語学研修のティエス、そしてここダーラ。

「途上国」と呼ばれる国に行くことは初めてじゃなかったので、たいして驚くことはなかった気がします。

むしろそうか~そんな文化なんだ~。と楽しんでいた気がします。

最初は、全然セネガルが途上国なんていう印象は持ちませんでした。

テランガという文化もあり、何かしら食べ物は分けてくれるし、市場は活気があるし、

学校はあって勉強してるし、女性は服やアクセサリーでおしゃれを楽しんでいるし。

私にとっては、単に「異文化」でした。こういうものなのだと、なんだかストンと受け入れてました。

でも、ここに3か月ほど住み、ダーラの人々と話して、交友関係をもって、一緒に時間を共有すればするほど、

彼らの背後にある境遇に驚くことがあります。

同じ23歳のセネガル人の友達が、家族の中で自分1人だけが働き手だから、両親や兄弟のために働いてたり、

お父さんやお母さんが別の場所に住んでいて、子どもだけ親せきの家に住むことなんて普通だったり、(小学校や中学校に通うために)

離婚して、子ども2人を村の親せきに預けて、自分は住み込みでお手伝いさんとして働いていたり(病院にいくお金はないので、いつもお腹や頭が痛いと薬頂戴と言ってきます。)

いつもバナナを売っている仲良しなおじちゃんが、実は出稼ぎでギニアから来ていたり、
(他にもレバノンやモーリタニア人もよく見る。)

たまたまブティックで話していたセネガル人が、出稼ぎで家族をセネガルに残してイタリアで働いている人だったり

いろんな人に会うわけです。

いろんな境遇があって、最初は全然「途上国」なんて思っていなかったセネガルですが、

話を聞くうちに、彼らはこうしたいけれど、現実では出来ない事情や環境が多くあって

国としては、まだまだ発展途上にある国なんだな、ということを肌で感じます。

それがいいとか、悪いとかじゃなく、そういう厳しい状況が目の前にあるという事実は伝えたいです。

それでも、セネガル人に対して、これを伝えたいんだ!とか、これは大切だから、こうしたいんだ!とか、この指導法の方がいいよ!

というような想いは、私は言いたくありません。

セネガルをというと大きく聞こえてしまいますが、セネガルの未来を作っていくのは

他ならぬセネガル人だと強く感じます。その中心は常に彼らであって欲しい。

一緒に悩んだり、一緒に解決法を探したり、何かを提案したり、横をつなげたり、

助け船を出したりは出来るかもしれませんが、常に中心は彼らであるということを大切に

これからも活動を続けていきたいです。

そしてこんな偉そうなことを思いながら、その逆もしかりで

日本を(中心になって)作っていくのは、他ならぬ日本人なんだよなあ~とか思いながら。

そして思っていても、私何も出来てないじゃん~とか思いながら。

・・・・・大きなことばかり考えても何もうまれないので、目の前のことを必死に頑張ります!



図工の授業で紙を折って切って花を作るのを見せたら、
「え~!!すごーい!」という瞬間の写真。



頑張って折っています。



先輩隊員が飼っているヤギのえみちゃん。かわいすぎる。



泣きそうになるくらい綺麗な夕日でした。最高の1枚。


2014年1月21日火曜日

セネガルでの日常生活

Bonsoir!

任地についてもう少しで3か月になります。

新年明けてからの活動は、最初のころより日常に慣れた部分もあり、

新鮮味がなくなっているといえば、そうかもしれませんが

少しずつ落ち着いて周りを見渡せるようになった気がします。

移動範囲や交友関係が広がり、楽しい毎日です。(暑いの以外は。)

今回は、最近では当たり前になってきているセネガルでの私の日常を紹介。

日本では当たり前じゃないことばかりです。きっと。


①断水

住む地区や場所によって全く異なりますが、私の家は毎日断水があります。

計画断水なのか、そうじゃないのか、必ず朝7時になると水がでない。

夕方や夜になっても出ないことも。

しかし、なぜか夜10時くらいになると、ものすごい勢いで水がでます。

そんなときがチャーンス!!

こうやって水をためておきます。これは10L入る容器。

私の家には大体6,7本常備してあります。



②料理

日本食が食べたくなったときしか、あまり料理はしていませんが、、、

これにはガスが入っていて、ガスの出る量を調整できます。

少量ガスを出しながら、マッチで火をつけて料理します。

火が付く瞬間は一瞬ボッ!!となるので、魔法使いになったような気分になれます。

ガスが切れたら、これをブティックにもっていって、新しいものと交換します。

まだ無くなったことがありません。(笑)




③ごみ

他の途上国でもそうでしょうか。

セネガルでは、至る所にごみ、ごみ、ごみ!!!!

ごみ箱に捨てるという習慣がないんですね。

食べたら、すぐそこにポイっ!潔いくらい、捨てます。

ペットボトルだけは、再利用していますが。

大人も子どももおばあちゃんも関係なし。

罪悪感なんて微塵も感じていないでしょう。

そしてそのごみを、そこらへんにたくさんいるヤギたちが食べています。

環境教育、何とか授業で取り入れたいものです。





④砂

セネガルは砂の国。特にここダーラは、砂ばかり。

家の中にも砂が入ってきます。

セネガル人は毎日掃除していますが、私は1週間に1回。(笑)

1週間で家のなかにはこれだけの砂が。

そして、砂が本当に細かくてサラサラしています!!!

なので、掃き掃除だけじゃ、完全には取り切れません。

学校でも、市場でも、ここでは何かを始める前には、砂を掃く、掃き掃除から始まります。



⑤小物

全然関係ないですが(笑)

服を作ってもらった余り布で、ミニポーチを作りました。

小銭入れにしています。

買ったのはファスナーのみ。

かかった費用10円。

少しずつ、色んなアフリカン小物を増やしていきたいなあ~。



それでは、A la prochaine fois!

2014年1月18日土曜日

本音

Bonsoir!

今日は金曜日。毎週金曜日は基本的に村の小学校に行くと決めています。
なぜなら村に行った翌日は疲れて、朝起きれないから。(笑)

そして村に行くと、違う視点を得れるので、とても楽しいし、ハっとすることもしばしば。

今日行った村は、Mbethie村というダーラから3キロほど離れたプル族の村。

ダーラ周辺の村の中では、かなり近い方。

ここの小学校は2012年に出来たばっかりで、1年生と2年生にあたる学年しかクラスがありません。

半分から前を向いている机と、後ろを向いている机があります。

50人くらいの複式学級。先生は1人。

村と市内では、別の問題を抱えています。

今日はMbethie村で1人の教師ウスマンと授業をして、ご飯を食べながら色々話していました。

すると彼はこんなことを言いました。

「教えることは難しい。教員になった最初の3か月は怖くて寝れなかったよ。
だって何を言っても、何を教えても、子どもたちはキョトンとしているんだもの。どうしたらいいのかわからなかった。」

幸いなことに、彼は村ではなく、3キロ離れたここダーラに住んでいて、毎日通っています。

往復で6キロ歩くときも。(今日は私も帰り歩いて帰ってきたけれど、砂道をひたすら歩いてクタクタでした。)

そのため、ダーラ市内の別の小学校で働く友人にどうしたらいいのか聞いたみたいです。

それからは、少しずつ良くなったんだとか。

セネガルでは、就学率が2010年に90%近くまで上がった結果、教員不足に陥り、

教員養成課程が9か月程度しかありません。

高校を卒業した資格があれば、教員養成校に入学する権利はあります。

そして若い先生はウスマンのように、村に行かされることが多いみたいです。

教員の質の低下が問題視されています。

でも、どうでしょうか。

高校を卒業して、教員養成課程を9か月で終え、コンクールと呼ばれる教員になるための試験に受かって、

いざ教員として村に行ってみたら、教員は自分1人だけ。子どもは50人もいる。

しかも、複式学級。相談しようにも、同僚が村にはいない。教材だって十分にない。

校舎はコンクリートではなく、藁で作ったような校舎で、強風が吹けば、とんでいきそうな。

そんな状況でも、ウスマンは向上心がないわけじゃありません。

今日の授業後、帰り道、しきりに私に質問してきます。


今日の授業はどうだったか。
印象はどうだったか。
子どもたちの様子はどうだったか。
何かなおしたらいいところはあるか。



教員の質が低いのが問題だ!!!

本当にそうでしょうか。

「最初の3か月、どうしたらいいのかわからなくて寝れなかったよ。」

今日ウスマンが私に話してくれた彼の本音は、何だか問題の本質をつついているような気がしました。

一般的に問題とされていることを鵜呑みにするのではなく、

自分で話を聞いて、一緒に働いて、そこから何が問題で、私に出来ることは何なのか。

自分がボランティアだ、という立場も踏まえながら、セネガル人と一緒に前を向きながら考えていきたいものです。

本音を話してくれたウスマンに心から、アジャーラーマ!(プル語でありがとう!)


村に行くまでの道のり。


村で1人の教師ウスマンと子どもたち。そして校舎。


一生懸命にフランス語をアドワーズ(個人用ミニ黒板)に書く1年生の子。


自分で書いたフランス語を見つめる1年生の子。


宿題用のノートに一生懸命フランス語を書く2年生の子。


公用語のフランス語が授業で使われ、子どもたちも学ぶ。

小さな村で誰も外国人がいなくて、

がやがやとした車や人もいないのどかな場所で

みんなが話す言葉じゃなく、

彼らにとっては外国語であるフランス語が使われていることに、不思議な感覚を覚える。




2014年1月17日金曜日

La paix

La paix, elle aura tous les ages
La paix, elle aura ton visage
La paix sera toi, sera moi, sera nous
Et la paix sera chacun de nous

Jam, menna am sasunekk
Jam, menna am busbnekk
Jam, modi yow, modi man, modi gnun
Kon jam, menna am sasunekk

みんなの心に平和を
あなたの心に平和を
あなたに私にみんなに愛を
今日も明日も永久に
溢れる光とともに

先日知った「La paix」(平和)という歌。

綺麗な歌詞。必ずといっていいほど、挨拶で「Yaangiy ci jam?」平和か?平和の中にいるか?元気か?と聞かれるセネガルにいて、この歌は、何だかすっと心に入ってくる。

フランス語、ウォロフ語、日本語で。

今日もjerejef!

2014年1月14日火曜日

チュバッブ

Bonjour!

先週は火曜~金曜のストライキ。
水~金曜はカフリンという場所で先輩隊員が主催した現地教員セミナーに参加。
無事1人初移動は成功でした。
月曜から学校が始まる!と思った矢先、ガンモというイスラム教の祭典のため授業なし。

明日(水曜)から授業が始まってくれることを願います。インシャーラー!(神のみぞ知る。)

それはそうと、日曜から月曜にかけて初めて友人の結婚式に参加してきました。

新郎(招待してくれた友人)が村出身者という事で、新婦さんも村出身者。

夜19時に新郎の家に集まり、食べたりwaxtaan(談話)したり。

夜21時くらいに車にのり、ダーラから30キロ離れたThiarngyという村へ移動。

疲れたけれど、これは素敵な体験でした。

車といっても乗車率150%くらい。しかも、荷台みたいなところに板があって、

そこに無理やり人を乗せて移動。30キロあったので、30分か40分くらいかかりました。
(写真参照。こんな感じの車に乗りました。出来れば乗りたくない・・・。)


もちろん砂道。街灯なんてありません。車のライトだけが道しるべ。

頭上を木の枝がかすっていくので、頭を下げて時々木を避けなければなりません。

横は暗闇。空には、月や星がきれいに暗闇の中で輝いてました。

車上では、グリオ(伝統音楽を伝える人たち)がジャンベを叩いて、女性はそれに合わせて手拍子。(写真を綺麗にとれなかったのが残念。)






なんともセネガルらしさを感じた瞬間でした。

そして村について、晩ご飯食べて、またwaxtaanとグリオの演奏。

夜中3時くらいに新婦を連れてまた砂道を乗車率150%の車でダーラに移動。

仮眠をとり、次の日の朝からまた始まりました。



ダンス大会。waxtaan。アタヤ。セネガル料理。新郎新婦よりも

参加者が楽しんでいたような印象をうけました。疲れたので夕方に帰宅。

結婚式は私が帰宅した後も、夜中まで続いたようです。すごい体力!

この結婚式は新郎・新婦共にプル族だったので、来ている人もプル族が多かったです。

私が話す現地語はセネガルで多くを占めるウォロフ語。プル語は全くわかりません。

さらに結婚式なので、知らない人が9割以上。

この結婚式で一番聞いた言葉、それは「チュバッブ」。

チュバッブとは、「外国人」という総称。

普段道を歩いていても言われることもあるけれど、無視しています。

しかし、村で逃げ道がない。

無視しても、次から次へとチュバッブと呼ばれる。プル語はわからなくても

チュバッブとう単語はわかる。何か私のこと言ってるな~という雰囲気はわかるわけです。

「私はチュバッブという名前じゃない。アミナだ。」

と言っても、聞こえてくるのはひたすらチュバッブ。

さすがにイラついてくる。

チュバッブだから金もってるだろ~というおちょくりも

プル語話せないのか!という多少小ばかにした感じのからかいも、

眠気と逃げ場のない村の環境とで、普段のように流せない。

ふつふつと悲しみのような怒りがわいてくる。

しかし、結婚式。雰囲気を壊すまいと、ひたすら耐える。

次の日も、知らない人は、ひたすらにチュバッブと呼んでくる。

私がいた10時間くらいの間で、確実に200回以上は言われました。

友人に聞くと、悪気があって言っているわけじゃないとのこと。

頭では理解できても、総称で呼ぶなんて失礼だろ!と内心思う。

でも、どこにでも、いい人はいるもので、

仲良くしてるセネ人は、かばってくれる。

プル語で何言ってるかわからなくても、フランス語で説明してくれる。

お金をくれとしつこいおばちゃんに説明してくれる。

チュバッブと呼ばれると、アミナだよって訂正してくれる。

気を使って、こっちで休みなよって言ってくれる。

例え9割嫌な人でも、1割のいい人がいれば、その人に救われて生きていけると感じた結婚式でした。(9割嫌な人がいたわけではなく、比喩として。)

先ほども言ったように、みんながいい人ではなく、

中にはバカにしてくる人もいるし、笑ってくる人もいるし、ひたすらにお金をせがんでくる人もいるわけで、

悲しくなるときもあります。むかつくときもある。イライラするときもある。

泣きたいときもある。孤独を感じることもある。日本に帰りたくなる時だってあります。

そんなとき、世界中で頑張っている同期の存在や、優しいセネ人、日本にいるみんな、

セネガルにいるJOCVや、同じようなことを感じるだろうピースコーの仲間の存在が

支えてくれています。

そしてそんな状況でも、自分が望んできたことで、好きなことが今ここで出来ている環境を

幸せに思います。

Ndank ndank!! (ウォロフ語で少しずつ少しずつ)




赤ちゃんと新婦さん。
そして仲良くしてくれるアワ!




2014年1月8日水曜日

タリベの涙

Bonsoir!

ここダーラでは6日から学校が始まりました。

新年学校2日目。いつものように8時前に学校にいくと、授業が始まる8時には

校長先生と、教員1人しかいない。

・・・・・・・・???????なんで???

一緒に活動している先生も8時半くらいに来ました。

なんと今日から3日間ストライキとのこと。

まじか~。セネガルに来て初めてのストライキ。セネガル全土です。

でも全員じゃなくて、働いている先生もいます。

子どもは来ているのに、先生が来ていないから授業がない。

そのあと、子どもたちは勉強することなく帰っていきました。

その背中が何だか切ない・・・。

そして授業が終わり、学校を出ると、タリベの子どもたちがいました。

いつもよくいる光景。

タリベとは、道でお金や食べ物を乞う子どもたち。



でも物乞いとは違います。

セネガルにはマラブーと呼ばれる宗教指導者がいます。

タリベと呼ばれる子どもたちは、親元から離れ、マラブーの下でコーランを学んでいます。
(コーランはキリスト教でいう聖書)

でも、マラブーは食べ物や服は与えてくれないので、子どもたちが自力で探さなければいけません。

セネガルのテランガ(おもてなしの文化)だからこそ、生きていける部分もあると思います。

どこの家庭でも、食事中、もしくは食べ終わった後にタリベの子どもたちに

ご飯を分け与えています。タリベの子どもたちもその時間を見計らって

小さい容器とともにやってきます。

道をあるいていると、必ず手を出して「マイマジュローム」と言ってきます。

25フランちょうだいって意味です。(5円くらい)

いつもは私は名前を聞いて、その差し出された手に握手をして、笑顔でまたねって言います。

たいていのタリベの子どもは、これで終わります。彼らも笑ってまたねって言ってくれます。

でも、今日の1人のタリベは違いました。

私が学校を出て、家までの道で1人のタリベの子どもが何も言わず手を差し出してきました。

私は「お金ないよ」って言いました。それでもついてくるので、名前を聞いていつものように握手をしました。またねって。

でもその子はどこまででもついてきます。

本当にどこまでも。

私はたくさんの人と挨拶をして、出来るだけ時間をかけて帰るようにしました。

その子が諦めて帰るのを期待していました。

でもその子はどこまででもついてきます。



そして家の近くについて「私、帰るよ」っていうと

手を私に押し付けたまま、泣き始めました。

何があったのか。

何を聞いても、答えません。

泣き続けます。手を差し出して、お金をくれというように。

「お金はあげられないよ。」と何度もいう私。

それでも、どこにも行きません。

完全に困った。近所のセネガル人にヘルプを求めても、

なんで泣いているんだ!!何が欲しいんだ!!金か?というように威圧感たっぷり。

その時近所のおばちゃんがご飯に呼んでくれたので、行くことに。

その子が諦めて帰ることを期待して。

しかし、ついてくる。食べ物が欲しいの?ときいても首を横に振る。

食べ終わって帰ろうとしても、通してくれない。

「Su fekee doo wax dara, man menuma degg. Su fekee dagaay begg, waxal. Loo begg?」
もし何も話さないなら、私は何もわからないよ。何か欲しいなら、話して。何が欲しいの?

と。少し酷なような気がしましたが、聞きました。

すると「Xaris la begg」「お金が欲しい」

と本当に小さな声で言いました。

「Man munuma jox la xaris bi」「お金はあげれないよ」

というとまた泣き出します。その代り食べ物をあげました。

でもいらないといいます。お金が欲しい。それしか言いません。

そして帰りたくても通してくれない。泣きながら手を押し付けてきます。



お金をあげても、状況がかわるわけではない。そして他のタリベの子どもたちにはあげれないのに

この子だけにあげるには抵抗がありました。でも、きっと家の前にまでついてくるだろう

この子どもを家の前で締め出すこともできませんでした。

7歳くらいのボロボロの服を着て、何かを訴えるように泣いて、お金をせがんできます。

1時間くらいこんな状態でした。かなり葛藤がありましたが、25フラン(5円くらい)あげました。

これで本当に帰るのかと半信半疑で。

すると割とあっさり帰っていきました。

1時間の格闘の末、彼が勝ち取ったのは25フラン。

欲しいものは服でもお菓子でも、お昼ご飯でもなく、お金でした。

よく背景は知らないけれど、その子にとって25フランにどれだけの価値があったのか。

そしてどんな未来が彼らには待ってるのだろうか、そんなことを考えた日でした。

どんな対応がよかったのか、今でもわかりません。

そしてそんな状態の子どもを写真にとるんなんて薄情に思えましたが

伝えるべき事実だと感じ、写真におさめました。






2014年1月3日金曜日

Bonne et heureuse année!

明けましておめでとうございます。
2014年ですね。

2013年は多くの人に出会え、学び、感じ、考え、
そしてやっと大きく人生の歯車が動き出したような素敵な素敵な1年間でした。

2014年も命いっぱい生きようと思います。

2014年も、よろしくお願い致します。

さて、セネガルでも年越しやその他もろもろありました。

①セネガル髪型





セネガルでよく言われる、ベスト3に入ること。

それは、「髪ちょうだい」や「髪それナチュラルなの?」とかいってよく触られます。

アフリカの人はみんな髪がチリチリしているので、ストレートに憧れるようです。
(髪の毛ビジネスはチャンスだと思います。笑)

なので、髪型を変えるときは、ウィッグをつけたり、編んだり、とにかくおしゃれは大好き。

私も学校が休みの時に編みたい!と思い、やりました。

人工毛はいっています。1パック。(笑)

結構痛いです。これ。そして髪は洗えない。(笑)

セネガル人は2週間もつって言ってたけれど、そんなに我慢できません。

でも、この髪型をしていると、道を歩いているだけで、たくさんのセネ人が「髪型いいね!」

って言って話しかけてくれます。形から入るのもありですね。


②年越し
セネガルはイスラム教徒が多いので、イスラム暦では新年は別の日です。

都会の方では花火やお祭りがあるみたいだけれど、

私の任地では「それは(1月1日が新年といことは)白人やそっちの文化でしょ。」

っていう感じの人もいました。

町もいたって普段と変わらない。全然年末年始の雰囲気はなかったです。

31の夜、私はセネガル人の友達の家族の家に遊びに行きました。

夜ご飯はかなり豪華に牛肉のチェブヤップ。大晦日だからだったみたい。

電気のない外で懐中電灯で照らしながら、薪で料理しました。

空を見れば満点の星。

素敵な時間を共有できました。いつも突然行っても暖かく迎えてくれる、

そしてご飯を分けてくれるセネガル人友人の家族には、いつも感謝します。

そしていつも暖かい気持ちをもらっています。



それからは、別のセネガル人の友達と先輩隊員と

小さい年越しパーティーがあるというレストランへ。

セネガルダンスとセネガルミュージックで2014年を迎えました!

➂チャメヌ村

新年早々、村にいる友達の家を訪れました。

私はバイクをもっていないので、いつも村に行けるわけではありません。

学校がない今がチャーンス!!

村と市内では、雰囲気も人も変わります。

私の任地のダーラでも、流れる時間はゆっくりですが、

村で流れる時間は本当に本当にとてもゆっくりです。

セネガル料理チェブジェンを食べ、アタヤを2回のみ、話して帰る。

それだけですが、とてもいい経験でした。

普段関わるセネ人は学校関係者。比較的高等教育を受けている人たち。

それが村に行けば、字が書けない人、読めない人、フランス語が話せない人

そんな状況が、当たり前のように存在していました。

でも、村に行けばいくほど、人も穏やかで、心いっぱいもてなしてくれます。






④帰国隊員送別会

先日、2か月間一緒に暮らしていた先輩隊員が2年間の活動を終えるため

送別会がダーラで開かれました。

多くの事を教えてくれ、多くの相談にのってくれたお姉ちゃんのような、仲間のような

そして時には先生のような先輩!

寂しいですが、その背中から多くの事を学び、今後にいかしていきます。

その先輩の送別会のため、ダーラには約15名のJOCVが各任地からきました!

こんなにたくさんの日本人!(笑)

夜はセネガル人も別れを惜しみに来て、素敵な1日を過ごしました。

1年9か月後、自分が帰国するときも、胸を張って帰国したいと強く感じました。




日に日にセネガルが好きになっています。

知らない人に話しかけるのも話しかけられるもの、暖かくおもてなししてくれるのも

挨拶を大切にするもの、素敵です。

もちろん嫌なことも起きるし、言われたりしますが、自分の反応をみて

新たな自分を発見して楽しんだり、優しいセネ人に助けられたりして、楽しく生きています。

長くなりました!今年もどうぞよろしくお願いいたします。


村での1枚。


左から2番目が帰国される先輩。
同任地のアメリカピースコー(平和部隊)の2人と
同期隊員のムリムー(左)と私。
Dahraメンバー!!