2015年1月9日金曜日

イスラム過激派のフランス紙攻撃

昨日から、ニュースはこの話題で溢れていますね。

痛々しい事件が起こってしまい、本当に心が痛みます。

日本での反応はどうなのでしょうか。気になります。

ニュースをインターネットで見ていると、「報道の自由」「表現の自由」に

関してマニフェストする人が多い印象です。

攻撃された「シャルリ・エブド」が表紙にしていた風刺画たちをみて、

最初の印象は、「これはやりすぎだ」と思いました。

私は周りがみなイスラム教なので

彼らにとってどれだけイスラム教が大切なものか

どれだけ彼らの人生に影響を与えているのか

身をもって感じています。

イスラム教の最後の預言者であるモハメット(ムハンマド)の

誕生祭がこの間あったくらい、モハメットは預言者の中でも

とても特別な人物のように見えます。

どんな理由であろうと、風刺画だけを見れば、その信仰心を侮辱している

と思える十分なものだと感じました。

かといって、人を殺していいのか、というと

全く持ってそんなわけはないので、

彼らの行為は許されるものではありません。

しかし、「表現の自由」や「報道の自由」は人を侮辱するためにあるわけではないとも

思いました。

というのが最初。

しかし、私はそのフランス紙がどのような歴史を築いてきたのか

またフランス社会がどのようなものなのかをわかっていません。

偏った見方だとは思います。

ある知人曰く、「報道の自由」に対する攻撃は「フランス共和国」そのものに

対する攻撃と同義。とおっしゃってました。

また他の知人曰く、「皮肉的」に何かを表現するのは、フランスの1つの文化であり

表現する表題について「尊敬」の気持ちがあるから、そう表現が出来る。

そうでなければ、別の方法を選ぶ。

そうおっしゃってました。

(お二方ともフランスに、もしくはフランス人が身近にいる(ある)人たちです。)

なるほど、「報道の自由」の重要さや「皮肉的文化」(ちょっと意味合い違う?)

を理解していていないと、表面だけしか見えないなあと思いました。

日本人としては、「皮肉的」に何かを表現することには

やっぱり「ちょっとひどいよなあ」と思ってしまうので

その感覚はわかりませんが、彼らの風刺画には、そのようなフランスの文化が

あるということは知っておくべきかな、と。

今日友人のセネガル人とこの話題について話していて、友人曰く

「On peut blaguer n'importe quoi mais sauf la religion!」

「どんなことに対しても冗談を言っていい。けれど、宗教を除いてだ。」

イスラム過激は決してイスラム教とイコールではありません。

どうしたら、分かり合い、共存できるのでしょうか。

彼らの肩を持つわけではありませんが、宗教に対して偏見や差別が

助長されず、お互いの宗教を(分かり合えなくたって)尊重し合い、

生きていける社会に、誰もが暮らせるように、心から願います。




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